※性的な描写を含んでいるのでご留意の上でお読みください。



融解日和



   融 解 日 和



 彼女の持つコンビニの袋ががさりと揺れ動いた。
 いつもの帰り道のこと。
「問題です。今日は何月何日でしょう?」
「十一月十一日でしょ」
「何の日か知ってる?」
「知らない。何かあったっけ」
「今日はね、ポッキーの日だよ」
「へえ、そうなの」
 そのコンビニ袋の中身はそういうことか、と納得する。
「そうなの。だから、これから風里んち行ってポッキーゲームしよう」
「……は?」

 そう提案した紀穂は本当にあたしの部屋まで押しかけてきた。
「ちょっと! あたしまだ良いって言ってない!」
「まだってことはこれから言ってくれるんだ」
 彼女はからりと笑いながら小さなテーブルにポッキーの袋を置く。
「いや、だから」
「んー。とりあえずポッキー食べよう」
 定位置のクッションに腰を下ろしてポッキーを開封しはじめた紀穂を見て、あたしはため息をもらした。今日も変わらず、紀穂のマイペースぶりには呆れるばかりだ。
 仕方なく自分も同じように袋からポッキーの箱を取り出して開封する。
 飲み物も買ってある。相変わらずこういうところは用意がいい。
「風里は極細派?」
「派、ってほどでもないけど」
「身体が細いと好みも細いほうに行くのかな?」
「わけわかんない」
 ただそんなに多く食べられないし、甘いのはあまり好きじゃないだけだ。
 そんな紀穂はいちご味をぽりぽりと齧っている。
 紀穂はあたしとは違って、程よく肉がついていて、バランスのいい身体つきだ。と、以前そのまま言ったら怒られた。
「極細派のアナタは、さっぱりしっかりしているようですごく繊細」
「どこの心理テストよ」
「あたし調べ。風里限定」
「他の味を選んだらどうだったの?」
「知りたい?」
「いや、いい」
 そんな他愛のない会話を流しつつ、ぽりぽりと小動物のようにポッキーを齧る。

 小袋の半分ほどで手を止め、紅茶で喉を潤す。
「あたしはもういい」
「よし、じゃあしよう」
「そっちの『いい』じゃない!」
「いいじゃん、たまにはこういうのも、ね?」
 紀穂がわざわざ普通のポッキーを開封して一本の持ち手側をくわえる。
「チョコ側は譲ったげるから」
「いらない! ていうか、あたし、甘いのあんまり好きじゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ」
「んー。……ちょっと待ってね」
 そう言って紀穂はポッキーを持ち直し、口の中に入れ、
「ん……」
 折らないように丁寧に、チョコレートの部分を舐めしゃぶり始めた。
「ちょっ、何してんの!?」
 紀穂の突然の行動を嗜めようとしたが、彼女は止めようとはしなかった。
「あまいの、やなんでしょ?」
 そのまま、あたしの部屋に紀穂のたてる水音だけが響く。
 この突拍子のなさが紀穂の性格であるのは知っているけれど、本気で頭がおかしくなったのではないかと思った。
 でも、頭がおかしくなったのはあたしの方かもしれなかった。
 そんな彼女から、もう目が離せない。
 愛しそうに蕩けた目も、艶やかに濡れた唇も、上気して斜陽よりも赤い肌も、あどけなくポッキーをつまむ指も、どれもあたしの心をとらえて離さない。
 心臓の音が妙に早くてうるさい。
 リズムよく混ざる荒い吐息が紀穂のものか、あたし自身のものか、もうわからない。
 あたしは何もされていない。紀穂がポッキーのチョコレートを舐め取っているのを見ているだけ。
 それなのに、自分が乱されているような、倒錯した感情があたしの中にじわりと広がっていく。
「……はい」
 紀穂がただのプレッツェルの棒になったポッキーをあたしの口元に差し出してくる。
「これなら、いいよね?」
 プレッツェルはチョコレートの代わりに紀穂の唾液でコーティングされて光っている。それを意識したとたんに、ぞくりとあたしの奥の何かが燃え上がっていく。
 直感的に、受け入れてはいけない、とあたしの中から警告が遠く聞こえた。
 これを受け入れたら戻れない。もう戻れなくなる。
 わからない。
 わからない。
 わからない。
「……風里」
 紀穂が切なそうにあたしの名前を呼んだ。
 それだけで、ぷつりと、

 そっか、
 あたし、

 もどりたくないんだ。

 ポッキーをくわえた。
 折らないように、やさしく、今度はあたしが紀穂の唾液を舐め取っていく。
 ほのかに残ったチョコレートの甘さと、紀穂の甘さが、
 舌から脳へ、身体へ広がっていく。
 しあわせ。
 しあわせ。
 しあわせ。
 しあわせすぎて、しびれていく。
 ぞくぞくとしたカンカクにおかされていく。
 あたまがおかしくなりそう。
 もうおかしくなってる。
 それでいい。
 もう、それでいい。
 紀穂がポッキーのもう片方をくわえる。
 ぱり、とプレッツェルを噛み砕く。
 その分だけ、あたしに近づく。
 ぱり。
 近づく。
 ぱり。
 近づく。
 ぱり。
 近づく。
 ぱり。
 彼女が近づくたびにあたしの心が震える。
 ぱり。
 彼女が近づくたびにあたしの身体が震える。
 ぱり。
 もうすぐポッキーがなくなる。
 ぱり。
 早くきて。
 ぱり。
 はやく!
 ぱり――

 ゼロになる直前で、紀穂の動きが止まる。
 このひと噛みで最後なのに。
 自分の呼吸が荒くて、おあずけをくらった犬のようだ。
 一センチメートルに満たない距離が果てしなく遠く感じる。
 視界を覆い尽くした紀穂は、あたしを見つめたまま動かない。その視線が、「もうわかってるよね?」と言っている。
 彼女からいちごの甘い匂いが漂ってきて、あたしの心をさらに焦がしていく。
 ああ!
 紀穂はいつもそう!
 マイペースなくせに、あたしをのせるのはいやに上手くて、
 あたしはいつものせられて、
 でも、いやじゃなくて、
 むしろ、
 だいすきで、
 ああ、

 いじわる!
 いじわる!

 なのに、
 そんなところも、
 だいすき。

 あたしは最後のプレッツェルを噛んだ。
 唇が温もりで融けた。
 温もりが口内に滑り込んでくる。
 どろりと、甘さと苦さと酸っぱさとしょっぱさが流れ込んでくる。
 舌から脳へ、身体へ。
 無駄な感覚がなくなる。ひたすら気持ちいい情報だけが走る。
 あたしの全部がチョコレートになって融けていく。
 しあわせ。
 しあわせ。
 しあわせ。
「ん、ぷぁっ」
 唇が分離する。
 あたしと紀穂とチョコレートが混ざった液が垂れて落ちた。薄黒い液はどこか血のように妖しく光った。
 ぐらりと世界が揺れた。紀穂に押し倒されたことに気づいた。
 そのまま彼女はあたしにまたがって、口から黒い血を垂らす。重力に引かれてあたしの口元に落ちてくる。
 血のように暗く、毒のように恐ろしく、蜜のように甘いその液を、舌で受け止める。口内に流れ込んだら、抗わずにこくりと飲み込む。
 もっとしあわせになる。
 繰り返す。
 しあわせ。
 しあわせ。
 しあわせ。
 紀穂の首に手を回し、引き寄せる。
 唇が再び融け合う。
 絡まる。
 しあわせ。
 しあわせ。
 しあわせ。
 悦びにむせびながら、あたしは涙を流す。
 あたしたちのつながりは正しいのか、間違っているのか。
 こうして彼女と蜜のような時間を過ごすとき、あたしはいつもこうして泣いてしまう。
 戻れなくていいと思ったはずなのに、あたしは彼女への申し訳なさでいっぱいになってしまう。
 ごめんなさい、と心の中で叫ぶ。
 そして紀穂もいつも通り、あたしの頭を撫でながら、さらに優しく愛してくれる。
「風里」
 名前を呼ばれる。
「紀穂」
 呼び返す。
 それだけであたしたちはつながる。
 感情が全部混ざり合って、
 すべてが快楽に変換されて、
 漂白されて、
 最後に残った「大好き」の気持ちに、二人で溺れた。

「ふと思い出したんだけど」
 二人寄り添ってベッドの側面にもたれ、余韻を味わっていると、紀穂が口を開いた。
「チョコレートって、媚薬っぽい効果があるんだって」
 そんな話題を振られても、返答に困る。
「そういえば今日の風里はいつもよりノッてたよね」
「馬鹿!」
 再び顔が熱くなる。
「ごめんごめん。でも少しはチョコレート好きになったんじゃない?」
「……だから、言ったでしょ」
 あたしは甘いのはあまり好きじゃない。
 紀穂だけで、甘過ぎて、すべて満たされてしまうから。

 そのまま二人でまどろむ。
 日がゆっくりと落ちていく。
 あたしは誰にともなく祈った。
 永遠なんて望んではいけない。
 でも、もう少しだけ、この子を、
 この蜜をひとりじめさせてください、と。


(終)





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